生物学者である福岡伸一さんの著書「ナチュラリスト~生命を愛でる人~」を読みました。フォローさせていただいている方のツイートで著者を知り、検索した中から表紙の雰囲気に惹かれてこちらの本を選びました。今日のブログでは、書籍の内容についてはあまり深く触れずに(私などが下手に説明してしまってはもったいないので!)読みながら思い出したことなどを雑文として書いています。
優しい文章
「福岡さんの紡ぐ文章は優しいです✨」ともツイートされていたので、「文章が優しいってどういうことだろう?言葉遣いが丁寧なのかな?」とそこも興味深かったのですが、実際に読んでみたところ、言葉のチョイスというよりは、文章全体から醸し出される雰囲気がとても柔らかいのです。著者の心の優しさが伝わる本当に温かい文章でした😊
そんな心地よい文章なので、残りのページ数が少なくなるにつれ、「あぁ、もうすぐ読み終わっちゃうな~」という一抹の寂しさも感じました。今までに、読み終わったことが寂しかったものと言えば「吾輩は猫である」(夏目漱石作の小説←この説明要る?🤣)と「動物のお医者さん」(佐々木倫子作の漫画)だったのですが、この本も仲間入りです。
ちなみに、上とは逆に読み進むことが嬉しかったのは何と言っても「サピエンス全史」の下巻です!ハラリさんの文章も(翻訳ではありますが)心地良いので読むのが苦痛だったわけではまったくないのですが、下巻の内容は私にとってはかなり難解で、寝落ちしては翌日また同じところを読み返すといった風だったので、読了した時はものすごい達成感でした😂
ナチュラリストとは
話は戻りまして、表題の「ナチュラリスト」ですが、直訳は「博物学者」となるようです。少し前まで私にとって博物学者とは冷たい廊下の先にある標本室で書物に埋もれている人のようなイメージだったので、「ナチュラル(自然)」と「博物学」は相容れない感じがしただろうと思われます。ところがちょうど最近「へんなものみっけ!」(早良朋作の漫画)という作品を読んでそのイメージがくつがえされたところでした。博物学とは、生命の神秘に迫る熱い研究者たちが、海へ、山へ、世界の果てまで行って野生生物の行動を解き明かそうとする、現代の冒険家の学問なのだそうです。自然が大好きな人にしかなれない職業ですね😊本書にも、昆虫が大好きだったシンイチ少年の話がふんだんに出てきます。
ヴィーガン発狂案件
とは言いながら、やはり剥製や昆虫標本の話も出てきます。薄々そうだろうな~とは思っていたのですが、昆虫標本とは天寿を全うした虫さんのみから作られるわけではないようでして、アンチ風に言えば「ヴィーガン発狂」案件です。その辺りの話はちょっと辛くて読むのをやめようかなぁと思ってしまった箇所もあるのですが、この本に関しては、そこは堪えて(でも覚えておいて)ぜひ最後まで読み切っていただきたいと思います。
ドリトル先生
本作の全体を通して語られていることの一つに、著者の「ドリトル先生」シリーズへの愛があります。「フランダースの犬」同様に本国よりも日本で特に人気があり、長く読み継がれている児童文学作品です。日本で人気を博している理由として、著者は井伏鱒二の翻訳の良さを挙げていました。「Dr.Dolittle」のDolittleは怠慢を意味する「do-little」であると考えられるため、「おさぼり博士」とでも訳されかねないところですが、それを「ドリトル先生」と訳し、一人称を「わし」としたことが、多くの子供たちを魅了する邦訳固有の世界を作っているのだそうです。(残念ながら私自身は読まずに子供時代を過ごしてしまいました・・・。)
井伏鱒二
あの有名な小説家の井伏鱒二さんが児童書の翻訳をしていたなんて面白いですよね。あの有名なと言いながら、私は井伏作品を教科書でしか読んだことがありません。一番よく文学作品を読んでいた学生時代に、先に太宰治作品に魅了されまして、太宰が死の間際に井伏氏をよく思っていなかったらしいことから「意地悪な人なのかな?」という思い込みがあり、何となく井伏作品を手に取らなかったのでした。数十年の時を経て、今回その経緯を調べてみますと(今は何でも簡単に調べられて便利ですね♪)、太宰の遺書はかなり理不尽と言いますか、「いやいや、井伏さんとんでもなく親身に面倒みてるじゃないですか!」と認識を改めましたので、今さらですが読んでみようと思います😆
センス・オブ・ワンダー
著者が、ナチュラリストにとって大切な素養の一つとして挙げているのが「センス・オブ・ワンダー」です。SF作品の用語としても有名な言葉のようですが、ここでは、そちらではなく海洋生物学者のレイチェル・カーソンが唱えた方の意味で使われています。
最初にあったもの。それはいったいなんでしょうか。それはおそらく美しさに打たれること、精妙さに驚くこと、フォルムの奇抜さに引き込まれること、動きのしなやかさに魅せられること、ぬくもりにほっとすること、あるいは風の匂いや光の粒だちをはっきりと感じること。そういう一連のことごとです。
(中略)
しかし、海洋生物学者レイチェル・カーソンが著書『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳、新潮社)でいうとおり、まもなく私たちにひとしく訪れる倦怠と幻滅、つまらない人工的なものに夢中になること、そのような日常のよしなしごとにまぎれて、最初にあったものは鈍り、遠ざけられ、あるいは自ら進んで忘れさられていってしまいます。
大人になる、とは本来そういうことなのでしょう。しかし、大人になってもかつてのセンス・オブ・ワンダーは完全に損なわれてしまうわけではないと思います。(中略)ほんの些細な手がかりがあれば、全く同じではないにしろ、それを想い出すことができるように感じるのです。
ナチュラリスト(福岡伸一著)より一部を抜粋
この文章を読んで、あぁなるほどと思い至ったのが愛猫つるちゃんのことでした。なぜここでいきなり猫❗という感じですが😆
つるちゃんは保護猫出身で、子猫時代にお外での暮らしを経験しているせいか、ものすごく外に出たがります。本来は完全室内飼いが望ましいのですが、あまりに出たがって不憫なので、猫用のハーネスをつけて自宅の庭を散歩させてあげることにしました。その時の様子がこちらです。
見るもの聞くもの触れるもの、そしていろんな匂い、それら全てに興味津々で楽しそうに歩き回る姿はまさに「センス・オブ・ワンダー」だなぁと思ったのです。
野良猫たちの過酷な暮らしを思えば、飼い猫は閉じ込められていて可哀想だとか、野良猫は自由を謳歌しているという意見に賛成するつもりはないのですが、人間にもアウトドアライフを好む人がいるように、猫にも自然を楽しむ心があるという、考えてみれば当たり前の事実を知ったように思います。
本の内容とはあまり関係のないことばかりを綴ってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました😊