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感謝は免罪符になるでしょうか

 ツイッターのタイムラインに流れて来たあるツイートのコメント欄を見ていて、とても息が苦しくなりました。こちらのツイートです。

 もし、引用リツイートでこのツイートを批判したなら、アンチヴィーガンの方々から「これだからヴィーガンは!」的な攻撃を受けそうですが、私が私のブログで自分の辛さを語る分には自由ですよね。

 このツイートそのものよりも、そこに連なるコメントがとても辛かったです。「食育」という言葉一つですまされてしまう動物たちの命・・・。誰も悪気があって書いているのではないことはわかりますし、ひと昔前なら普通に読み流せた気もするのですけど、今の私にはもう動物たちは食べ物に見えなくなっているので「感謝」で片付けられてしまうのは心が苦しいのです。この時代の沖縄の家畜たちは今の工場式畜産の動物たちよりはましだったのかな、せめてそうであって欲しいなと思いました。

 ヴィーガンの人でも、例えば未開の地で今の私たちとは比べ物にならないほど環境負荷の少ない原始的な生活をしている人々が大切に育てた家畜を自らの手で捌き食することを否定できる人は少ないのではと思います。私も、できればそれすらも無くせるならと本心では思いますが、表立って否定することはできません。でも、少なくとも今の工場式畜産のあり方は上のツイート本文にある「人の道」に反していると思います。

 ドラマを見ずにあれこれ書くわけにもいかないのですが、もし、今はまだ「感謝して食べる」に違和感のない方がこのブログを訪れてくださったなら、伊織さんのこの曲をぜひ聴いてみていただきたいです。

 感謝して食べればいいなんて誰が決めましたか?あなたは感謝されれば殺されてもいいですか?

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